五輪、食材調達に厳しい目 : 2021年7月31日 日経新聞夕刊
オリンピックの開催で、日本の家畜に対する姿勢が明らかになり、これが「動物愛護」の観点から国際的に批判を受けているということだ。
国土の問題にできるのか?
例えば、鶏のケージ飼育は日本が94%、英国42%、ドイツ6%と比較すると、段違いに高い。生産管理の基準として日本版JGAPという認証があるようだが、これも国際的に見て、基準が緩い認証制度ということだ。
ケージ飼育は国土の狭さから、ある程度やむを得ないという声も聞こえてきそうだが、韓国の食品会社プルウォンは2028年までに鶏のケージ飼育をやめる、という。同社は韓国での鶏卵流通の12%を占める。
これを聞くと、やむを得ない、というのは言い訳にしか聞こえない。
ところで、鶏卵場や養豚場を見たことがあるだろうか?
私は、幼少期を「ど」が付くほどの田舎で過ごした。近くにどちらもあったのを覚えている。子供の興味で近付くと、狭い舎内に多数の家畜が飼育されており、その鳴き声や家畜が放つエネルギーに恐怖を感じたのを思い出した。今思うと、あれは家畜のストレスだったのかもしれない。
ここからは、動物愛護の観点とは少し距離をおき、生きるためのコスト負担について書きたいと思う。
代替肉は高すぎて…
自炊をすると、特に鶏肉には、その命を感じさせるモノを幾つか見受けられる事がある。生きるためには、食べなければならない。自分の命を、この子に命と引き換えに頂いた事に、いつも感謝するが、最近は、本当にこの子から命を頂く必要があったのだろうか、と強い疑問を感じる。人間だから発明が可能で、発明によって、他の動物のように、命から命を直接頂くような手段をとらなくてもいいのではないか、と。色々な想像がおきてしまうのだ。
最近は、鶏肉に包丁を入れる為に、ある程度の覚悟が必要になってきてしまった。
料理の度に、気持ちが萎えるので、大豆ミート(大豆で製造した代替肉)で何とかならないだろうか?と思うようになった。大豆ミートは日本でも流通しているが、まだまだ高価で、とても手が届かない。
ならば、大豆を育てよう、という気持ちになった。以前、プランターで野菜を栽培していた時期があり、野菜を育てるのは好きだ。しかし、今は、転居後の住居の制約で、そんな場所もない。いつか、大豆を育てて、自給自足の生活が出来ればと夢を頂いている。
最近では、自称ビーガンという方々が増えたが、それはおカネのある一部の富裕層だけが実現可能なのではないのか、と感じてしまう。先日、J-WAVE(東京のFMラジオ局)で、代替肉をテーマにしており、私も放送中に価格をチェックしたが、高すぎて購入は出来なかった。一方で、放送中にリスナーから、「すぐに購入しました」というメッセージも届く。このギャップにはとても違和感を覚えた。
時間もおカネも無い、私のような者がビーガンになるには、まだ経済的なハードルが高すぎる。
安いことはいいことか?
これまで安いことはいいこと、とされてきた。しかし、これからは、日本のような豊かな国は、生きる為に、一定のコストが要求されるのではなかろうか。価格が上昇すると、正当な報酬を受ける労働者の増加につながるはずだ(雇用主が搾取しないという前提)。例えば、私は、南米産の肉をよく購入するが、その単価は国産の半分程度だ。この価格で届けてくれた関係者(生産者、輸入業者、物流業者、小売店等)への感謝は忘れない。しかし、いつも疑問が湧く。「この価格は本当に、ここまで届く対価に等しいのだろうか?どれだけの犠牲のもとで、この価格で自分の手元にあるのだろうか。」、と。
また、この価格であるが故に、例えば、産地の南米の労働者は、本来受け取るべき報酬を受け取っていないのではないか、と。私の生活を支える重要な仕事なのに。本来、我々はもっと費用を負担すべきではないだろうか。勿論、急に価格が上がっては、生活ができない。
しかし、関係する全ての人が幸せになれるような仕組みを、グローバルに創作する必要があるのではなかろうか。
安いことがいい、という時代は、もう終わったのではないだろうか。「高原社会」(*1)に辿り着いたのだから。
合理的という経済の前提
経済学においては、人間は合理的な選択をする、という前提が置かれる。例えば、全く同じモノが2つあれば、価格の安い方を選択する。それはその通りだが、とても重要な事が欠落している。それは、人間の心、である。経済学では、人間の心は考えてはいけないとされてきた。しかし、人間の心を捉えずに、合理的に物事を進めてきた結果が「市場原理主義」である。つまり、全ては市場に任せればいい、という考え方だ。これは、恐ろしく冷酷で、人間を幸せにする考え方とはとても思えない。
前出の、輸入肉の価格も、市場に任せた結果ついた価格である。しかし、本当にそのプライシングが正しいのだろうか?この方法が、人間を幸せにしているのだろうか?
私は、経済学は、人間の心をとらえて理論を展開する時代にきたのではないか、と考えている。とても難しいのは理解できるが、簡単なモデルでいいので、経済学の新たな潮流を開く経済学者、そして、その価値を認めるレフェリー(査読)の登場を心から願っている。どんなに良い論文があっても、それが認められないと世には知られないのだから。
「人間は心があってはじめて存在するし、心があるからこそ社会が動いていきます。」(「人間の経済」p17, 宇沢弘文著 新潮新書(2017))
負担額はわからないが
結局、現代の経済学では、その負担額は幾らが適切なのか、という点に解を与える事ができないのだと思う。解が分からないから、そう行動できないし、理論の裏付けが無いものに手を出さないのは、すごく当然である。
しかし、社会全体が幸せである為には、少なくとも現在のモノの価格は安すぎると思う。ここでは、経済の価値だけで話を進めているが、勿論、それが正しくないのは承知している。私自身、経済の価値で幸福を計るのは、とても嫌いだ。しかし、今の私の能力では、これが限界である点をご了承頂きたい。
代表取締役 白鳥高文
<参考文献 : 外部サイト>
- COURRiER JAPON(クーリエ・ジャポン)2021年7月号 山口周責任編集「高原社会」への胎動, 講談社
- 「人間の経済」, 宇沢弘文, 新潮新書(2017)
*1 高原社会 : そして、私たちは経済成長の坂をのぼった先にある、成熟した「高原社会」にたどり着こうとしているのだ、と。… 20世紀以前の「登山の社会」から21世紀以降の「高原社会」…。(COURRiER JAPON(クーリエ・ジャポン)2021年7月号)